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関ヶ原!!



関ヶ原の戦い――
それは、戦乱の世に終止符を打ち、
後の日本のありようを決定づけた。
秀吉亡き後、豊臣家への忠義から立ちあがる
石田三成(岡田准一)と、
天下取りの野望を抱く徳川家康(役所広司)。
三成と家康は、
いかにして世紀の合戦に向かうのか?
そして、命を懸けて三成を守る
忍び・初芽(有村架純)との、
密やかな“愛”の行方は……。
権謀渦巻く中、「愛」と「正義」を貫き通した
“純粋すぎる武将”三成を中心に、
三成へ忠誠を誓う島左近、
忠義に揺れる小早川秀秋など名だたる武将たち、
そして彼らを取り巻く女たちの
“未来に向けた”戦いが、今、幕を開ける!!



決戦までの経緯

豊臣家中の対立と家康の台頭

天下統一を達成した豊臣政権の内部においては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して文禄・慶長の役でも前線で戦った「武断派」と呼ばれるグループと、内政・経済兵站(へいたん)・宗教管理など、戦場以外の分野で活躍していた「文治派」の対立抗争が存在したが、これらの対立は以下のような豊臣政権そのものの政治的矛盾に端を発するものであった。

豊臣政権の中央集権的な全国統治政策外様大名の領国への豊臣奉行による太閤検地の実施。外様大名領への太閤蔵入地の設定。特に文禄・慶長の役の過程で新たに設定された太閤蔵入地へは文治派系列のものが代官として送り込まれる傾向が強かった。大名の有力家臣への知行宛行(伊集院忠棟、鍋島直茂など)と内政干渉。秀次事件による豊臣家及び豊臣家臣団の確執・連座を免れた大名と家康との接近。



秀吉本人や実弟の豊臣秀長などの存在により表面化は避けられていた。だが、天正19年(1591年)の秀長の死、文禄・慶長の役の遂行方針や賞罰をめぐる対立により、両派の溝は深刻なものとなっていた。

秀吉は晩年には五大老と五奉行の制度を整え、諸大名に実子の豊臣秀頼に対する臣従を誓わせて慶長3年(1598年)8月18日に伏見城で死去する。ここで両派の対立は顕在化し、秀吉死後10日後の28日には、五大老の毛利輝元と浅野長政を除く四奉行の間で起請文を交すという、徒党を組むことを禁じた遺命破りが早速行われている。さらに秀吉死後の27日もしないうちに徳川家康と五奉行(五人の年寄)の不和が明るみになり(『萩藩閥閲録』第三巻―巻九九ノ二)、また五大老(奉行)の家康は、島津領の太閤蔵入地の解除や福原直高(三成の妹婿)の知行地半減など太閤蔵入地支配を通じた文治派による専制・集権体制の解体をはかる。また、禁止されている大名同士の婚儀や加増を取り仕切り、影響力と他の大名との連携を強める。これに対して、同じく五大老の前田利家は家康を糾弾。一時は伏見(徳川側)と大坂(前田側)が武力衝突する寸前まで行った。最終的には誓書を交換するなどして対立は避けられたが、この際に武断派諸大名や婚儀の相手となった大名が徳川邸に参集し、豊臣家内部は分裂の様相を呈し始めていた。

徳川邸に参集した大名福島正則、黒田孝高・黒田長政父子、池田輝政、蜂須賀家政、藤堂高虎、山内一豊、有馬則頼・有馬豊氏父子、京極高次・京極高知兄弟、脇坂安治、伊達政宗、新庄直頼・新庄直忠兄弟、大谷吉継、森忠政、堀秀治、金森長近、最上義光、田中吉政など。前田邸に参集した大名毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、加藤清正、織田秀信、織田秀雄、増田長盛、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長、長束正家、前田玄以、佐竹義宣、小西行長、長宗我部盛親、立花宗茂、鍋島直茂、有馬晴信、松浦鎮信など。

翌年の閏3月に利家が死去すると、武断派の加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長の七将により、文治派の筆頭である五奉行の石田三成に対する襲撃が実行された。なお、七将は常に家康の同意を仰ぎ、七将の行動はあくまでも家康に容認された範囲に限られていた。三成は伏見城内の自己の屋敷に立て籠もり難を逃れたものの、家康の仲介で事件の責任を取らされることになり、奉行職を解任され居城の佐和山城に蟄居となる。この時、三成が家康の屋敷に逃げ込んだとされるのは根拠のない俗説。三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正統性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価されている。



加賀前田征伐

1599年9月7日、秀吉の遺命で伏見城に居るはずだった家康であったが、重陽の節句で秀頼への挨拶として伏見城を二男・結城秀康に預けたまま大坂城に入城。同日、利家の嫡男で加賀金沢城主である前田利長が家康を暗殺するという、陰謀があったと発表する。

これは利長を首謀者として五奉行筆頭の浅野長政、秀頼・淀殿側近の大野治長、および加賀野々市城主の土方雄久が、大坂城入城中の家康を襲撃し暗殺するというものである。一説には五奉行の増田長盛と長束正家が讒訴したとも、家康自らが故意に流布したものともいわれるが、情報の出所は不明である。しかし家康はこの「暗殺計画」を最大限に利用。警護の名目で譜代の家臣と兵を引き連れて大坂城に入城し、そのまま居座った。

10月2日、暗殺計画に加担した諸将に対する処分が家康より発表され、長政は隠居を命じられ武蔵国府中に蟄居し、治長は下総結城、雄久は常陸水戸に流罪となった。翌3日には首謀者である利長を討伐すべく、「加賀征伐」の号令を大坂に在住する諸大名に発し、加賀小松城主である丹羽長重に先鋒を命じた。金沢に居た利長はこの加賀征伐の報に接し、迎撃か弁明の択一を迫られたが、結局重臣である横山長知を家康の下へ派遣して弁明に努めた。家康は潔白の証明として人質を要求、利長の母で利家正室であった芳春院を人質として江戸に派遣することで落着した。

この一件により五大老・五奉行の制度は完全に瓦解することとなった。家康は高台院退去後の大坂城西の丸を本拠とし、ここから矢継ぎ早に大名への加増や転封を実施した。これは味方を増やすための多数派工作であった。細川忠興に豊後杵築6万石、堀尾吉晴に越前府中5万石、森忠政に信濃川中島13万7,000石、宗義智に1万石を加増。文禄・慶長の役で落度があったとして福原長堯らを減封処分とし、田丸直昌を美濃岩村へ転封した。



会津上杉征伐

詳細は「会津征伐」を参照

家康の台頭に対して、三成は上杉景勝の家臣・直江兼続と密謀を交わし、上杉景勝が先手を打って家康に対して挙兵するとともに常陸国の佐竹家がこれに応じて挙兵、大坂では豊臣秀頼を推戴して三成が挙兵し家康を東西から挟み撃ちにしようとしたというが、宮本義己によると、これは俗説で提携の微証は見当らないとする。決起後の三成が、真田氏に発給した書状のうち、七月晦日付の真田昌幸充書状に、「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と頼んでおり、七月晦日の段階でも、上杉氏との確かな交信ルートを持ち合わせていなかったので、景勝と三成の具体的な謀議や提携は、なかったものと見ておきたいと分析している。

一方、家康は河村長門守を使者にして陸奥若松城主である上杉景勝に上洛するよう要請したが、景勝は今秋を期して上洛すべしとの答辞であったので(『落穂集』『景勝一代略記』)、家康は弁明の使者を送るよう改めて景勝に命じた。しかし上杉氏の重臣であった直江兼続はこれに反発、家康側の交渉担当者の西笑承兌に宛てたいわゆる「直江状」にて挑戦的な態度で家康を非難した。しかし直江状の信憑性については疑問もある。直江状記事を参照。

いずれにせよ、家康は自ら上杉征伐に出ることを決定し、秀頼の台命による征伐の形を整えた。

家康は上杉領内を五箇所から攻撃することを定め、6月2日に東北・関東・北陸の諸大名にも出陣を命じた。北の米沢口に最上義光・南部利直・戸沢政盛ら、北東の信夫口に伊達政宗、西の越後津川口に前田利長・堀秀治・溝口秀勝・村上義明ら、南東の仙道口に佐竹義宣を当て、家康は西国諸大名と共に南の白河口より一斉に攻め込む体制を採った。6月15日家康に秀頼より金2万両と兵糧2万石が下賜されて、秀頼の命を奉じる形で翌16日に大坂城を出陣、一旦伏見城に入った。この時の家康の様子を侍医である板坂卜斎は『慶長年中卜斎記』において次のように記している。

「17日に千畳敷の奥座敷へ出御。御機嫌好く四方を御詠(なが)め、座敷に立たせられ、御一人莞爾々々(にこにこ)と御笑被成より…」

この後鳥居元忠・松平家忠・松平近正らに伏見城守備を命じ、鉄砲の弾が尽きれば城内の金銀を弾込めしてもよいとまで言い切った。さらに山科まで見送りに訪れた島津義弘にも伏見城守備を依頼して江戸へと下る。一方、佐和山城に隠居していた三成は、家康が江戸に下るとの報を受け、家康留守中を狙って挙兵し、西国大名を糾合して家康を討つ決意を固める。

また上杉景勝も、家康から上杉領に侵入することを指示されていた常陸の佐竹義宣と同盟を結んでおり、白河口より攻め込んでくる家康を挟撃する計画があった。他にも会津領内の浪人などを雇ったり、会津神指城の築城や、急速な各城の補強工事など、攻めよせる家康軍への迎撃体制を整えていった。



この戦いは、日本の大きな歴史が変わる戦いですね。誰が統一するかによって今の世の中も変わっていたかもしれないですね。( ^o^)ノ


予告動画

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公開まで一ヶ月ちょい💡待ち遠しいよね😻😻😻



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