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ジョン・ウェイン



ジョン・ウェイン(John Wayne,1907年5月26日 - 1979年6月11日)は、アメリカの俳優、映画プロデューサー、映画監督。「デューク」(Duke)の愛称で呼ばれた。本名はマリオン・ロバート・モリソン(Marion Robert Morrison)。


生い立ち


ジョン・ウェインはアイオワ州ウィンターセットで生まれ、マリオン・ロバート・モリソンと命名された。実家は薬屋で、薬剤師の息子でもある。

しかし、両親が彼の弟をロバートと名付けることを決め、マリオン・マイケル・モリソンと名付けられた。一家は1911年にカリフォルニア州グレンデールに転居したが、ウェインはどこへ行くにもエアデール・テリアの「リトル・デューク」を連れていたため、隣人が「ビッグ・デューク」と呼び始めた。以後ずっとウェインは愛称「デューク」を本名の「マリオン」より好んでいたという。

高校卒業後海軍兵学校へ出願するが入校できず、南カリフォルニア大学に入学した。そこで彼は伝説のコーチ、ハワード・ジョーンズの下、フットボールに取り組んだ。

しかし水泳中に負った怪我が元で競技生命が絶たれてしまう。彼は怪我の原因が明らかになった時のジョーンズの反応を恐れたと後に記している。



ハリウッド




マーシャ・ハントとともに。『荒原の激闘』(1937年)の一場面


大学在学中、ウェインは田舎の映画スタジオで働き始めた。西部劇のスター、トム・ミックスはフットボールのチケットと交換に夏の間、大道具係の仕事を彼に世話してやった。ウェインは大道具係から1928年には映画の端役に選ばれ、1930年、ウェインの最初のクレジット入り映画であるラオール・ウォルシュ監督の超大作『ビッグ・トレイル』に主役として抜擢された。

ウオルシュがアメリカ独立戦争での将軍、"マッド・アンソニー"・ウェインから取った「ジョン・ウェイン」の芸名を彼に与えた。当初はそのままアンソニー・ウェインの芸名を与える予定だったが、「イタリア風に聞こえる」という指摘があったために名をアメリカ風の「ジョン」と改めたのである。

『ビッグ・トレイル』は商業的に失敗し、ウェインは『駅馬車』がヒットするまでの間、B級活劇専門俳優として長い不遇の時代を過ごした。しかしその間に、射撃、乗馬、格闘技を修得。不遇期間に主演したなかには『歌うカウボーイ、シンギング・サンディシリーズ』などというものもあり、馬にのりながら歌うシーンが残っている。



ジョン・フォードとの出会い



ヴェラ・ラルストンとともに。『ダコタ荒原』(1945年)の宣材写真


1939年、端役時代から友情を固めていたジョン・フォード監督の大ヒット作『駅馬車』に主演。やがてウェインはヘンリー・フォンダと並んでフォード作品の看板役者となる。

その後も多くの作品を生み出し、幾つかはウェインの代表作となった。続く35年間で『アパッチ砦』、『黄色いリボン』、『リオ・グランデの砦』、『静かなる男』、『捜索者』、『荒鷲の翼』、『リバティ・バランスを射った男』と言ったフォードの映画20作以上に出演した。

ウェインは多くの戦争映画に出演し「アメリカの英雄」として賞賛されたが、現実には兵役には就かなかった。1940年に徴兵が復活し、1945年に第二次世界大戦が終了するまでウェインはハリウッドに残って21作の映画に出演した。

1941年の真珠湾攻撃当時、彼は34歳で徴兵の該当年齢であったが、家族依存の理由で3-Aに分類され徴兵猶予を申請し受理された。これには国中の興味が集まり、後に2-Aに変更された。

ウェインは西部劇や戦争映画に、俳優としての信念を賭けていたため、強く英雄的な役割を多く演じ、逞しく深みのあるヒーロー像を築いていった。

生涯出演した154本もの映画のうち、79本は西部劇であった。その一方でコメディ映画やNBCのコメディ『ラフ・イン』にピンクのウサギの着ぐるみで出演するなどユーモアの感覚も持ち合わせていた。




スター



スキポール空港に到着したウェイン。1960年11月18日


1948年のハワード・ホークス監督『赤い河』の大ヒットにより、翌年初めてボックス・オフィス・スターの4位にランクインし、名実共にスターの座を獲得。以後20年以上、ベスト10の座を守り続けた。

一方で自他ともに認める愛国主義者である彼は、リベラル思考の観客からは典型的タカ派俳優として非難の対象ともなり、特にベトナム戦争が泥沼化した一時期には人気を落としたが、それに対抗するように製作・監督・主演兼任で映画『グリーン・ベレー』を完成させ、ベトナムで特殊作戦に従事するアメリカ兵を描いた。

多くの作品に出演したウェインは『硫黄島の砂』で主演男優賞、監督した『アラモ』で最優秀作品賞と2度のアカデミー賞ノミネートを受けていた。だが、そんな中ウェインは1964年に肺癌を宣告され、片肺を失うも闘病を宣言して俳優活動を続けていった。そして1969年の『勇気ある追跡』で粗野で酒飲みな隻眼の保安官を演じ、ようやく最優秀主演男優賞を受賞した。

念願のオスカーを手にしたウェインは人気を取り戻し、以後遺作となった『ラスト・シューティスト』まで精力的に活躍した。

また、俳優時代には俳優組合長も務めていた。




死去

胃癌の悪化で、1979年5月1日よりカリフォルニア州ニューポートビーチのカリフォルニア大学ロサンゼルス校医療センターに入院し治療を続けていたが、72歳の誕生日を迎えて17日目の6月11日午後5時35分(日本時間12日午前9時35分)に死去した。ウェインの遺体はカリフォルニア州オレンジ郡のコロナ・デル・マールにあるパシフィック・ビュー・メモリアル・パーク墓地に埋葬された。

日本でも、毎日新聞に『ミスター・アメリカ死す』を始め、大きな見出しで出された。アメリカ各地で半旗が掲げられた。

入院期間中の6月5日には、当時の大統領であるジミー・カーターがウェインの見舞いに訪れた。現職の大統領が映画俳優を見舞うのは異例のことであった。

死因である癌の原因の一つとして、ネバダ核実験場の100マイル風下で『征服者』の撮影が行われたことを挙げる者もある。

葬儀に際し、次期アメリカ大統領となったロナルド・レーガン(ハリウッド俳優出身)は、「実生活でも卓越した巨人だった。体躯、態度、信念に不屈の強さを感じた。思いやりのある誠実な人柄は、利己的なハリウッドではめったにお目にかかれぬ存在だ」と語った。



気になる所がありました

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ジョン・ウェインはなぜ死んだか 核実験 西部劇ロケ 総勢1200人 砂漠からハリウッドに、60トンもの砂 すさまじい放射


広瀬隆著「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」を文庫本で読んだ。
内容はこうだ。
「アメリカは、1951年、52年、53年と立て続けにネバダ砂漠で核実験をした。
それも80回以上も。
その結果、ユタ州やアリゾナ州、ネバダ州など、ラスベガスの近くで大量の死の灰を降らせた。
1954年に「征服者」という映画のロケで、その死の灰がある砂漠に行った俳優やエキストラ、スタッフらは
総勢1200人、
三ヶ月も屋外、つまり砂漠の上で馬に乗ったりしながら、粉塵を浴びつつ、撮影をした。
内容は、モンゴルのジンギスカンの話だった。
主演はジョン・ウェイン、スーザン・ヘイワード。

 その結果、有名な俳優らは、以後10年から20年の間にガンや白血病を患って、30代、40代の若さで亡くなってしまった。
エキストラの死亡も多く、それまではガンの死亡を見たことのない現地の葬儀社が以来
ほとんどの死亡者がガンで亡くなっていることに驚くほどだった。
ゲイリー・クーパー、ジョン・ウェイン、スティーブ・マックイーン、ロック・ハドソン、ロバート・テイラー、
ジョン・フォード、スーザン・ヘイワード、ユル・ブリンナー
名のある俳優女優らが、その映画ではなくとも、砂漠でロケをしたりした結果、ガンになり亡くなった。
当時はとにかく西部劇が流行だった。
 
 おまけにその砂漠からハリウッドに、60トンもの砂を運んできて造成の為か映画の為か、まいたのだそうだ。
たぶん、西部劇のセットのためだろう。

 だから、砂漠に行かないでもハリウッドで活躍していたスターもガンで死んでいる。
 ウォルト・ディズニーでさえ、若くしてガンで亡くなっている。

すさまじい放射能物質の恐ろしさがわかる本だった。

 アメリカのことなのに、綿密に調べて書いてくださった広瀬さんには感謝の名著だ。
 アメリカでも出版しようとしたが、御上の差し金か、できなかったそうだが、今ならアメリカ、いや世界中で出版できるかもしれない。



こんな事があったんですね

これは、けっこうな問題な事ですよね。

この時代は、問題視されなかったんでしょうか?


記事を読んでいただきありがとうごさいます。
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